さて、今回のエピソードは恋人の章からのもの。やや刺激的な内容ですが、これは、私の経験と想像によるところが多い部分なので、主人公が進む道からは少し外れていると思って、削除した部分です。
一月の半ばになると、親戚から貰ったお年玉もあったので、二人で温泉にでも行こうという話になった。もちろん、泊まりが許される訳はないので、日帰りが出来る温泉を雑誌で探したところ、混浴もある温泉が箱根湯本に見付かったので、そこに行くことにした。
土曜日の朝、八時に横浜駅で待ち合わせると、まず、国鉄で小田原まで行った。どんよりと曇った寒い日で、空からは今すぐにでも雪が降って来そうだった。小田原からは箱根登山鉄道に乗り換えた。途端に電車のスピードが遅くなり、ゆっくりと山の中に入っていく。山の上のほうをじっと見ていたら、頂上あたりから山の姿が次第に霞んで見えなくなっていったかと思うと、目の前に雪が舞い始めた。なんだか別世界に行くような感じで、ユッコと二人で興奮して眺めていた。やがて、電車は箱根湯本駅に到着した。そこからは、バスに乗ることになっていた。バス停で立っていると、すぐに体が冷えてきた。ユッコは寒がって、冷えた手を悠二のコートのポケットに突っ込んできた。氷のようなその手を、悠二は自分の手で包み込んでさすった。すると、ユッコの手は、少しずつ温かみを取り戻していった。
やがて、目的地に向かうバスがやってきたので、それに乗り込んだ。運転手が可哀想になるくらい、乗客はまばらだった。ワイパーで雪を掻き分けながら、バスは細い道をくねくねと登っていき、しばらくして、目的地に辿り着いた。そこから歩いてすぐのところに、お目当ての『絹の湯』の看板が見付かった。格子戸を潜り抜けたその先は、木の階段になっていて、温泉の建物は見えない。枯れ木に囲まれたその階段をずっと下りていくと、やがて、木造の古い建物が見えてきた。中に入ると、カウンターの中から頭の禿げ上がった中年の男性が、『いらっしゃい』と声を掛けてきた。悠二はその前に行って、二人分の千円を払った。
「いやあ、寒いですね。今日は一日雪ですよ」
そう言って、男は悠二に券を二枚渡した。
「一日、雪ですか。露天風呂、大丈夫ですか?」
券を受け取りながら、悠二は何気なく質問してみた。男は、一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、「あっ、温度ですか? 大丈夫ですよ。うちの温泉は湯量が豊富ですから」と言って笑みを浮かべた。そして、「ご夫婦ですか?」と訊いてきた。
「いえ、違いますよ」と悠二は強く否定した。すると、ユッコが手をぎゅっと握ってきたので、横を向くと、実に幸せそうな笑顔をこちらに向けた。悠二もユッコに向かって微笑んだが、心の中で、結婚というものに対する二人の微妙な温度差を、この時、初めて感じた。
「露天風呂は、内湯から行けますから。あと、露天風呂は混浴になってますので」
男は笑顔でそう言ったが、じっと悠二とユッコを見る目に、何か探るようなものを感じて、悠二は居心地の悪い思いをした。
ユッコとは、すぐに露天風呂に行くことを約束し、『男』『女』と書かれた暖簾の前で別れた。中に入ると、スリッパが一組だけあった。ガラス戸を開けると、タイルで囲まれた四角い湯船から、湯気がもうもうと沸き起こっていたが、人影は見当たらなかった。悠二は、少し冷えた体を内湯に浸かって暖めたあと、思い切って外に出た。雪はこんこんと降り続いていて、体に貼りついては、すぐに溶けていった。コンクリートの道をしばらく行くと、岩で囲まれた露天風呂があった。そこに初老の男性が、岩にもたれかかって、目を閉じていた。悠二はその男性とは一番離れたところに回った。凍えた体をいきなり温泉に浸けた時は、痛いぐらい熱いと思ったが、じわじわと熱さが体の芯まで届くようになると、すぐに心地よい暖かさに変わった。ユッコもすぐにやってきた。アニメが描かれた大きいタオルで胸と腰を覆っていたが、湯に浸かっている位置から見上げると、お尻が半分くらい見えたので、悠二はどきどきした。ユッコが、「気持ちいい」と言って悠二の横に滑り込んできたとき、向かいの男性が目を開け、少しぎょっとしたような表情を見せたが、すぐに視線をそらし、しばらくして、タオルで前を隠して出て行った。
「女性のほうは誰かいた?」と訊くと、ユッコは、「ううん」と言った。
「貸し切りみたいなもんだね」
そう言って、悠二はユッコに口付けをし、その体を坐ったまま、うしろから抱きかかえた。既に周りの景色は白くなり始めていた。露天風呂の先には小さな川が流れていて、そのさらに先は山の傾斜になっていた。降りしきる雪が、川面に辿り着いては消えていくその有様を、二人でしばらくじっと眺めていた。
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