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感想文16

 「人生の花火」感想                    

 構想から17年かけて完成したという冨部久志君の「人生の花火」。

「私が経験したことだけでなく、作者・冨部久志さんの半生も織り交ぜた二人のハイブリッド小説です」

 モデルとなった写真家・金武武氏が後書きで書かれている通り、この小説は写真家の人生と若き日の作者を巡るエピソードが、創作という舞台の上で展開していく作品である。故に、ドキュメンタリーではなく、事実と創作を取り混ぜた冨部久志の「小説」と呼ぶべき性質の作品となったのであろう。


 どこからどこまでが金武氏の経験された事実なのか、その判断は読者の想像に委ねられているが、療養所や障害者施設、高齢者入浴サービスや救急対応の描き方には、一気に読ませる力が漲り、いつの間にか引き込まれていく。作者が強く心惹かれ、作品執筆に至る動機となったのは、写真家の人生において経験された事実の数々である。執筆のために何度もヒアリングを重ねる中、金武氏が体験した様々な出来事に対して、作者は深く感銘を受け揺り動かされたに違いない。もちろん作者自身の体験も作品の中に色濃く織り込まれてはいるが、あくまで二次的な要素として構成されている・・・というのが、私が読んだこの小説の手触りである。


 他者の体験について、どれくらい切実に表現できるかという問題は、体験の内実に入り込む意思や表現姿勢の強度によるが、それは主観や客観を超えた「体験の直接性の中に自分自身を投機する」ことだと私は考える。相手の悲しみやよろこびの感情に同期できるほどに自己意識を沈黙させること。それは時に他者存在に対する祈りにも似た行為となることがある。お互いの中にこころの共振が起こるとき、関係性の中で自他共に救われていくプロセスである。それらは、事実を分析し心理を探るような頭脳による作業ではなく、生命そのものによって覚知される異次元の認識といえる。


 脳は自分と他者を区別していない、とよく云われるが、利他とは、普通云われるように何か良いことを他者に対して行う意味ではなく、自分と同じように他者を実感することで、自発的に出て来る行為を意味するのではないか。少なくともそのような志向性において、自分も含めての他者との境界を打ち砕き、その汀において関係性を回復すること、と読み替えることが可能だろう。

 単に利己主義の克服ではなく、利己主義が高度に発展することで大切な自分も愛する他者も区別なく巻き込んでいく種類の体験である。作者は17年掛けて、それを作品の上で成し遂げたと私は感じる。


 この小説に中には、その時代の作者の想いや願い、悩みや葛藤が正直すぎるほどの筆致で描き出されている。中には読者にとって特に必要と思われない描写が多数登場するが、彼はそのようなディテイールを書かずにはいられなかったのであろう。何故なら、それは写真家の人生を、作者の体験たり得る場所に引き寄せるための重要な手段でもあるからだ。


 この小説は、金武武氏という写真家の人生をベースにしつつ、物事に対する視点や考え方、感覚的な受け止め方、印象の行方などに、作者自身の人生が色濃く投影されている。その時の、その場の空気感、というものに、彼が強くこだわっていることがこの小説を読み進んでいく中で分かった。それは多くの場合、若い日の感傷であり、生々しい性と欲望の感触であり、聖と俗が背中合わせにせめぎ合う、人によっては二度と戻りたくない20歳の若者の愚かしい印象である。それらが、現在の年齢の時点から描かれるのではなく、当時の想いの中にそのまま沈み込むようにして語られ、物語が進行していく。それはある意味で生きることの未熟さをそのまま表現の場に持ち込むことであり、作品の成熟度に関わる点でもある。おそらく、このような試みを敢えて行った理由は、この小説の中にいる主人公に対する作者の深い愛情である。いま・ここで共に呼吸するように、作者は写真家の人生に、文章表現という手段を使って同化しようと試みている。そして、それらは一定の成功を見たが、小説の主人公はまだその場所にいる。


 生きることにおいて、起こってしまったことと思っていたことの乖離は常にあり、おそらくは別の人生を願わぬ人生がないように、我々は我々の人生に満足などしていないはずだ。 


 本作では、女性が登場する度に、自分にとって気に入るか、気に入らないか、魅力的かどうか、という主人公の視点が必ず入る。否定はできないが、これでは直裁的すぎてエロスの立ち入る隙がなくなる、と私は感じた。もっと魅力的に描かれるはずの女性が、定型句のような存在に見えてくるのは、明るすぎる昼間の言葉のせいかもしれない。


 写真家・金武武氏の人生に対する敬意と愛情に充ちた本作が、このような立派な形に結実したことについて、長年の友人として喜びに堪えない。続編が作家の構想の中にあることを期待しつつ、本稿を終えることとしたい。



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