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失われたエピソード1(5)

更新日:2022年3月18日

 実はこの小説はもっと長いものでした。しかし、事前に何人かの友人に読んでもらったところ、長過ぎるという声があり、また自費出版の費用もページ数が多いと増えるので、本筋には影響のない、独立したエピソードのいくつかを、泣く泣く削除することにしました。せっかく金武さんからお聞きしたエピソードを削るのは断腸の思いでしたが、その方が小説も締まるとも考え、実行しました。そういったエピソードのいくつかを、ご紹介したいと思います。


 ある日、事務室に行くと、悠二は社長に呼び出された。

 「葉山君、明日、一泊の仕事はできるかな」

 団扇で顔を扇ぎながら、社長がにこにこしながら訊いてきた。特に予定もなかったので、悠二は「はい」と答え、続けて、「どんな仕事ですか?」と尋ねた。

 「いや、簡単な仕事なんだ。青山に住んでいる夫婦を乗せて、熱海に行って、そこで一泊して、翌日の朝その旦那のおばあさんを乗せて、新宿の病院に行って、検査が終わったら、おばあさんだけを乗せて熱海に送って帰ってくるというだけの仕事なんだ」

 立って聞いている間、悠二は社長の頭頂部に目が行った。薄い髪の毛の間から、汗の玉が噴き出しているのが見えた。仕事の内容はなんとなく分かったが、どうしてそんな面倒な事をするのか判然としないまま、席を離れた。

 翌日の午後、馬渕さんとは違う、別の救急担当の運転手である、横河さんという人の車に悠二は乗り込み、青山に向かった。向かう途中、悠二はもう一度仕事の内容を横河さんに詳しく訊いてみた。すると、横河さんは親切に答えてくれた。

 「熱海にいるおばあさんは温泉付きの高級老人ホームみたいなところに数年前から入っているんだけど、最近、寝たきりになって、もともと血圧が高い上に心臓が余りよくないんで、定期的に新宿の専門の病院で検査を受けては薬をもらってまた熱海に帰るということを繰り返してるんだ。まあ、本当はおばあさんだけ病院に連れて行って戻ってくればいいんだろうけど、三ヶ月に一回くらいの事だから、その子ども夫婦はゲストルームで一泊して、その間、おばあさんともゆっくり時間を持って、温泉にも入って、まあ、ちょっと贅沢な時間を過ごして帰るわけなんだよ。言っとくけど、我々が泊まるのはビジネスホテルだからな」

 「でも、それだったら、夫婦二人だけで電車で行って、次の日の朝、我々が行った方が、安上がりになりませんか?」と悠二は心に浮かんだ疑問を口に出してみた。すると、横河さんはハンドルを右に切って一呼吸置いてからこう言った。

 「それが、朝、七時半に熱海出発だからさ、まあ、余裕を見て四時半には会社に出ないと駄目だろ? 葉山君は四時半に会社来れるか? 電車動いてないだろう?」

 「・・・そうですね。でも、それだったら、熱海の方で車を探したら、当日の病院への送り迎えだけで済むんじゃないですか?」と悠二はさらに訊いてみたが、横河さんは悠二の話を遮ってこう言った。  

 「そんな心配しなくていいんだよ。金持ってるんだから」

 なんとなくすっきりしない話だったが、悠二は横河さんがうるさそうに言ったので、それ以上問い質すのは止める事にした。

 その青山のマンションは、白塗りの壁に湾曲した柵が付いたテラスがあって、いかにも芸能人でも出てきそうな高級マンションといった感じを醸し出していた。車を横付けにして、管理人さんに挨拶をして中に入り、『305 谷崎』と書いた表札の下のインターフォンを横河さんが押した。中から出てきたのは、クリーム色のジャケットを着た男性と、あちこちにフリルの付いた青いワンピースを着た女性で、二人とも五十才は過ぎていると思われるような顔にしては、若々しい服装が浮いた感じに見えた。その二人に向かって、「おはようございます」と横河さんが深々とお辞儀をしながら挨拶したので、悠二もそれに倣った。

 「ああ、ご苦労さん。今日、明日と宜しく」

 そう言って主人の方も軽く頭を下げた。手には何やら物の一杯詰まった黒いボストンバッグを持っている。すると、横河さんが、「お持ちしましょう」と言ってそのバッグを受け取ったので、悠二も奥さんの持っていたクリーム色の旅行鞄を受け取って車のほうに向かった。二人が車の後部のストレッチャーの脇にあるソファーに坐ると、横河さんは扉を閉め、運転席に坐ってゆっくりと車を走らせた。ふと後ろを振り向くと、谷崎夫婦は疲れているのか、二人とも目を閉じていた。すぐに首都高に入ると、渋谷を抜け、しばらく行くと、東名高速に入った。時速は既に百キロを超えていて、防音壁のない三車線道路を疾走していくのは気持ちがよかった。ふと、悠二は以前、秦野の養護学校に行く時も、この東名高速を利用した事を思い出した。いろんな出来事があり、いろんな勉強をさせてもらったあの養護学校時代から、さらに、いろんな出来事があって現在に至った道のりを考えながら、悠二は感傷的な気分に浸った。中でも、ユッコの事を思い出すと、もう忘れたと思っていたのに、仲良かった頃の笑顔が浮かんできて悠二の胸を刺した。

 「おい、寝てんじゃないだろうな」

 ふと悠二が目を閉じていた時を見計らって、横河さんが棘のある声を発した。

 「いえ、すみません、ちょっと考え事をしていただけです」

 悠二が落ち着いて答えたので、横河さんもその言葉を信じたようだった。

 車はしばらく行くと、大井松田に到着した。そこで一般道に降りて一路熱海に向かう。やがて切れ切れに海の見える風景が続くようになる。すると、また以前ユッコと鎌倉の海に花火を見に行った事を思い出した。・・・そうだ、あの時は養護学校の鈴木さんに会ったんだ。鈴木さん、なんとなくやつれたような感じだったけど、今頃幸せに暮らしているだろうか?

 「なんだ、やっぱり眠いのか?」

 また、悠二を現実に引き戻す横河さんの声が隣で聞こえた。

 「いや・・・でも、ちょっとそうかもしれません」

 悠二がそう言うと、横河さんはダッシュボードの収納スペースからガムを取り出し、「これでも噛めよ」と言った。悠二はお礼を言って一枚口に入れてから、元の収納スペースに戻そうとしたが、横河さんが、不満そうに「俺にもくれよ」と言ったので、しまったと思いながら慌てて銀紙を剥いたガムを一枚横河さんに差し出した。  「我々にももらえるかな」

 いつの間に起きていたのか、旦那さんのほうが我々の方に声を掛けてきた。少し馴れ馴れしさを感じさせるその態度は、過去にもこうした送り迎えを何度か我々の会社に頼んだことがある事を窺わせた。悠二は、「はい」と答えてガムを二枚後ろの方に差し出した。そのあとは後ろの方でひそひそと話す声が続き、横河さんと悠二は黙って前方を見詰め続けていた。

 車はやがて『寿楽館』と書かれた看板のある大きな建物の入り口に到着した。車を寄せるのに玄関の前の花に囲まれた噴水の周りをぐるっと回った。ホテルのような豪華なエントランスの前に車を停め、谷崎夫婦を降ろすと、旦那さんのほうが、「これ食事代」と言って、横河さんに茶封筒を渡した。横河さんがお礼を言ったので、悠二もそれに倣った。二人が自動扉の向こうに消えるのを一礼しながら見たあと、横河さんは「行こう」と言って熱海市内の方に車を走らせた。

 その夜は小さいながらも綺麗なビジネスホテルに泊まった。横河さんは悠二と簡単な食事を取ると、先ほどもらった封筒の中から1万円札を取り出して会計を済ませ、酒のあまり飲めない悠二を後にして夜の熱海の町に消えた。悠二もしばらく町をぶらぶらしたが、やたら飲み屋の看板が多いところよりは、海が見たいと思って、海岸の方に向かった。海辺の道路を渡って堤防を越えると、砂浜があってその先に暗い海が広がっていた。ちょうど目の前で子どもたちが花火で遊んでいたので、悠二は近付いていった。かなり歩いたので、悠二の顔からは汗が吹き出ていた。海からの湿気をたっぷり含んだ生暖かい風は、その汗を啄ばむどころか、さらに大粒の汗を置き土産にしていった。けれど、小学生と思しき子供たちは、そんな暑さに怯むことなく、おもちゃの花火を握ったまま走り回り、暗闇の中で激しく燃える光の軌跡を作り続けていた。悠二は思わずカメラのシャッターを開放にして、その光跡を撮りたい衝動に駆られたが、生憎カメラを持ってきておらず、ただ、その光の乱舞を眺めるしかなかった。やがて、勢いのある花火は尽きたのか、みな線香花火で遊び始めた。それまで駆け回っていた子どもたちが、みな、光の玉を落とすまいと、神妙な顔つきで、じっとしたまま、花火の先を見詰めていた。稲妻のミニチュアのようにも見えるその光の明滅を、悠二もまた飽きもせず眺めていた。



 翌朝、七時半には『寿楽館』の前に悠二は横河さんと車で乗りつけた。そうしてストレッチャーを車の外に出して、受付に谷崎さんを迎えに来た事を言うと、しばらくして白衣を着た若い女性スタッフがおばあさんを乗せた車椅子とともにやって来た。二人とも若くてきれいだったので、悠二の胸は少し高鳴った。それに引き換え、おばあさんの方は、頬がげっそりとこけていて、全く生気というものが感じられなかった。二人は手際よくおばあさんを抱きかかえてストレッチャーの上に乗せた。それを車の中に入れている間に、谷崎夫婦もやってきた。そうして、五人を乗せた車が動こうとした時、若い女性スタッフは、我々に向かって深々とお辞儀をした後、笑顔で手を振ったので、悠二も思わず頬を緩めながら手を振り返した。そうして、車は一路新宿方面を目指した。後ろの方では奥さんが頻りに愛想のよい声をおばあさんに掛けていたが、おばあさんの方は言葉数が少なく、時々びっくりするほど大きな咳をした。旦那さんのほうは疲れているのか眠っているようだった。悠二も眠かったが、時折太ももを思い切りつねって、何とか睡魔を追い払おうとしていた。ようやく新宿の高層ビル群が見えてきた時には思わずほっとした。高速を降りて十分ほどで、車は大きい庭が前にある、十階建てくらいの白い建物の前に停まった。悠二は車を降りて手際よくおばあさんを乗せたキャスターを外し、病院の入り口の前まで持っていくと、旦那さんが、あとは我々でやりますので喫茶室で待っていて下さいと言われた。車を駐車場に停めると、悠二は横河さんに着いていって、病院の中にある喫茶室に入っていった。

 中は意外と混んでいて、パジャマなどを着た患者と面会人とおぼしき普通の服を着た人との組み合わせが随所で見られた。中には痛々しげに点滴をぶら下げた患者もいる。そうした中で、悠二は、若い男性二人組である自分たちの存在が浮いたように感じられた。

 「おい、なに飲む? コーヒーでいいか?」と横河さんが尋ねてきたので、悠二は「リンゴジュースをお願いします」と言うと、横河さんは少し怪訝な顔をしながら、近くのウェイトレスに手を挙げて注文した。そして、横河さんは運転疲れからか二度ほど続けてあくびをした。しばらくしてから来たコーヒーを飲むと、横河さんは一端生気を取り戻したようだったが、やがて瞼が垂れ下がってきて、すっかり眠りに落ちてしまった。する事のない悠二は、尿意をそれほど感じていないにも関わらず、トイレに向かった。そうして、病院内の売店で雑誌を軽く立ち読みした後、喫茶店に戻ったが、横河さんはまだぐっすりと眠っていた。悠二も仕方なく目を閉じたが、周りの大きな話し声で眠れなかった。ウェイトレスが何度も水を注ぎ足しに来た。そうこうしているうちに、横河さんも目を覚ましたが、旦那さんが喫茶店にやってきたのは、それからまたしばらく時間が経ってからだった。横河さんは急いでレジのところに行って、封筒を取り出して会計を済ませた。喫茶店の外に出ると、旦那さんは鞄から封筒を取り出し、「じゃあ、これ」と言って横河さんに渡した。横河さんは深々とお辞儀をしたあと、「念のため、中身を確認させて頂きます」と言って、封筒の中の1万円札を数え始めた。全部で20万円あり、そんなに取るんだと思って、悠二は心底驚いた。この会社の給料のいい訳が分かったような気がした。そのあと、横河さんはそのお金を鞄の中に入れ、代わりに領収書を旦那さんに渡した。

 玄関前には奥さんとキャスターの上に乗ったおばあさんが既に待っていた。横河さんは小走りで駐車場の方に行き、車を持ってきた。悠二が手際よく後ろのドアを開け、キャスターを慎重に車の中に滑り込ませようとすると、旦那さんが、「ちょっと待って」と悠二を制して言った。

 「我々はここからタクシーで帰りますから。じゃあ、お母さん、またね。元気でね」

 続いて奥さんの方がおばあさんの手を取りながら、「お母さん、元気でいてくださいね。さようなら」と言いい、名残惜しそうにその手をさすった。すると、ずっと無表情だと思っていたおばあさんの顔に、喜びと悲しみが入り混じったような、複雑な表情が表れた。それを見て、谷崎夫婦の顔はどちらも急に泣き出しそうな顔になった。悠二もなぜか胸が痛くなった。やがて、奥さんが手を離すと、おばあさんは少し首を起こして弱々しげに手を振った。それを合図に、悠二はキャスターを車内に滑り込ませ、ドアを閉めた。そうして悠二も車に乗り込んだが、しばらくは三人の悲しそうな表情が頭の中を去らなかった。


*写真は、金武 武さんの花火写真のカレンダー2021年4月のページです。


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