関東に住む、1974年洛北高校卒の同窓生を中心とした東海道五十三次の旅、いよいよ佳境に入る6日目は文化の日でしたが、前日の全国的な大雨の呪縛から解放され、まさに長年言われ続けた「晴れの特異日」を示す、絶好の行楽日和となりました。
まずは集合場所の掛川駅で宿場印を買い、それから電車に乗って袋井駅へ。ここで静岡在住の1名と合流したあと、改めて東海道五十三次の旅の会員証授与がありました。
デザインの才があるKさん考案の会員証。裏面はそれぞれ洛北高校校歌と東海道五十三次の絵が印刷されています。ちなみに顔写真は高校卒業アルバムのもの。この若者が羨ましい。旅行につきものの旗も同時に製作してもらいましたが、写真は撮り損ねました。
そのあとは袋井宿へ。ここは日本橋から数えると27番目の宿、つまり東海道五十三次のちょうど中間の宿に当たります。そして、その名の通りの「どまんなか茶屋」が当時を偲んで再現されています。
宿場印を買ったら、なんと全員に静岡茶を淹れて頂きました。中央、どまんなか茶屋スタッフの女性とOさん。おいしいお茶に身も心も温まりました。
さて、次の見附宿では雄大な天竜川を眺めたあと、濱松宿へ。といっても、広重の絵は街中で場所を特定できないため、浜松城へと足を運びました。この日は半日の行程で、ここまで。夜の宴会では、長野県から1名が加わり、総勢18名となりました。
この日は雲で見えませんでしたが、京よりの旅人がここで初めて富士を見附けたことが、宿の名の由来だといわれています。
ライトアップされた浜松城。城主であった家康の像もありました。
天守閣の美しさについ目が行ってしまいますが、この城を支えているのは、実は、堅牢な石垣。これなくしては、過去の地震で天守閣も消滅していたことでしょう。
翌日の7日目は、マイクロバスを使っての駆け足旅行。舞阪宿から池鯉鮒宿まで、10の宿場を分刻みで巡っていきます。
テンションの上がるピンクのマイクロバス。おまけにナンバーは777!
舞阪宿は浜名湖に面していて、新幹線から弁天島の鳥居が見えるところです。
手前左では牡蠣をさばいておられました。浜名湖の中、遠くに鳥居が見えます。
そして、次の荒井宿の付近には当時の関所が再現されているので、そこを見学。
青空に映える、立派な松。
入り鉄砲に出女を徹底的に取り締まったお役人の面々。ビビりますね。
宿場印の販売事務所では、立派な手筒花火が置かれていました。
そのあとは、白須賀宿を経て、二川宿へ。
広重による白須賀宿、汐見坂の様子。
白須賀宿、汐見坂の現在の様子。
次の二川宿は修復された本陣あり、商家の建物あり、おまけにこの日はたまたま大名行列のイベントありと、見どころ満載でしたが、ここも足早に通り抜けました。
商家の建物内ではこんな催しもやっていました。
そして商家の軒先には、またしても手筒花火が。遠江、三河地方では、十八世紀ごろから手筒花火は盛んだったようです。
そうこうしているうちに、昼食の時間となり、この地に来たならやはり鰻ということで、文政年間創業の「丸よ」へ。その味に舌鼓を打ったのは言うまでもありません。
べっぴんという言葉について、別品が由来だとは知りませんでした。
お腹が膨れたところで、豊橋公園を散策し、公園内にある吉田城を見学。背後には自然の濠である豊川が流れています。
そして、御油宿近くの松並木を少し歩いて、赤坂宿へ。
当時の赤坂宿。九州南部や南西諸島に分布するソテツが当時の三河にあったとは。
現在の赤坂宿跡。地球温暖化の今なら、ソテツが静岡にあっても不思議ではありません。
さらに藤川宿から岡崎宿へ。
知る人ぞ知る、途中で見えた名鉄の舞木検査場。
さて、岡崎宿に辿りつくと、なんと私の名前を使った看板が迎えてくれました。もちろんここの八丁味噌を買ったのは言うまでもありません。
そうして最後の池鯉鮒宿に着いた頃にはすでにあたりは夕闇に包まれていましたが、これも予定通りでした。
三連休の間の好天に恵まれた二日間、交通渋滞にもはまることもなく、解散場所の三河安城駅に着くまで、今回もたった一人で綿密な計画を練り、我々を導いてくれたOさんには感謝の念しかありません。
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